他人どころか自分ですらもコントロールできない


(イラストは西野カナの似顔絵です。)

他人のことをコントロールしたがる人が多い。自分の子供もね。
特に歳を取ってくるとその傾向が強くなるようだけど、根本的な問題として、まず自分のことすらもコントロールすることは容易ではない。
ましてや、他人をなんて言うに及ばずである。
人がみな自分をうまくコントロールできるのであれば、うつもないし自殺もないはずだ。
実際には諸外国よりもうつも自殺者も多いのだから、日本人は自分をコントロールするのがとくに苦手なはずなのだ。

人として生きていて、自分すらコントロールできないのかと思えば愕然とするが、それは考えてみれば当然のことだと思う。
たとえば、バイクに乗るのは難しいことであるし、パソコンを使いこなすのも難しいことであるというのは容易に理解できる。しかし、人間のメカニズムはバイクやパソコンを凌駕している。大変に難しいからくりをしている。
たぶん、子供の頃から自分の体で生きているから、難しいという感覚は薄れていると思う。
子供たちは、その点で苦労しているのだ。国語はうまく操れないし、力がないからちょっとしたものも開けれない。身長がないから背伸びしているし、何より自分の感情をコントロールできないからひんぱんに怒ったり泣いたりしている。

自分を上手に使えない原因は、下記のものがあると思う。
  • 自分をコントロールできない
    • 身体的限界
    • 精神的限界
      • 思考すらコントロールできない
  • 時間をコントロールできない
  • 外部要因をコントロールできない

まず、身体をコントロールできない。ちゃんと食べて寝ないと力が出ないという当たり前を私たちはややもすると忘れがちだ。
無理をすればたやすく病気もする。
自分の身体能力以上には走れないし背伸びもできない。
「あの人はエネルギッシュに一日中活動している。私だって同じ人間なのだから出来ないはずはない。」という考えは成り立たないと思っている。
同じ民族で寄り添って暮らしている日本人らしい発想で、多民族が共存している国の人ならそういう発想にはならないのだ。
極端なことを言えば、生まれつき片腕がないとか、脳に障害があるとすれば、私にだって出来るはずとは思わないはずなのだ。
アスリートは、自分をいかに上手に操れるかを競っている。自分の肉体ですら、コントロールは難しい。
五体満足だから同じ人間と見誤る人たちは、個々人の見えない部分のポテンシャルの違いに鈍感である。

精神もコントロールできない。心が怒り出したらすぐには止められない。
瞑想をする人には分かると思うが、人は自分の思考すらコントロールできない。頭の中が、自分の意志を無視して勝手に喋っているのだ。しょせん、自我などというものは、それに同調するかどうか程度のことにすぎない。
多くの人はそれ以前の問題で、テレビやネットに書いてあるからまぁそうなんだろうと思っている。自分の頭で徹底的に考えていない。

時間的限界は、時間がたたないと花は咲かないということ。
今はすごくインスタントな世界だから忘れがちなことだけど、世の中は時間をかけないと実らないことだらけなのだ。インスタントに見える事象は、だれかが絶え間なく休みなくそれを供給しているだけのこと。
日本人は農耕民族なのだから、本来は時間を味方にするのは得意だったはずで、日本人が優秀な結果を残しがちなのはそういう部分から来ているんだと思う。
サラリーマンを志向する人が圧倒的多数なのも、農耕民族だからだろう。
絵も英語もブログも資産運用も、何もかも時間を味方にしないと話にならないことばかりだ。

外部要因は、雨などの天気、政府の政策の変更など。そのときには、それに柔軟に対処できる精神性が必要になる。晴れてる日は畑を耕して、雨の日は本を読むという「晴耕雨読」の精神が大事だと思う。

結局どうすれば良いのかというと、一人ひとりが自分の取り扱い説明書をつくるべきだと思っている。
機械を買ったら取り扱い説明書がついてくるけど、私たちには取り扱い説明書がついていない。自分でそれを作っていかなくてはならない。
自分は何が得意で何が不得意なのか?それは先天的なのか?後天的なのか?
日々ひたすら考えて、気付きは書いて残しておくべき。
そうすれば、自分がこの人生でどうすれば良いのか少しずつ少しずつ薄皮をめくるようにではあるけど、分かってくる。

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